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藤原京跡で撮影
 
藤原京(ふじわらきょう)
694年(持統天皇8)12月から文武(もんむ)天皇を経て、元明(げんめい)天皇の710年(和銅3)3月の平城京遷都まで3代15年間の都城。その宮城である藤原宮が、畝火(うねび)・耳成(みみなし)・香具(かぐ)の大和(やまと)三山に囲まれた地にあったことは、『万葉集』巻1の「藤原宮の御井(みい)の歌」によって知られる。1934年(昭和9)から10年間にわたる日本古文化研究所による発掘調査の結果、旧鴨公(かもぎみ)村高殿(たかどの)(奈良県橿原(かしはら)市高殿町)のいわゆる大宮土壇が、藤原宮の大極殿(だいごくでん)跡であり、その前方に12堂と朝集殿を配する朝堂院が存することが明らかにされた。1966年(昭和41)には、内裏(だいり)推定地を通過する国道165号橿原バイパス建設計画に伴って奈良県教育委員会による緊急調査が行われた結果、「評」名を記した木簡が多数出土して、「郡」・「評」の用字の交替期が大宝令(たいほうりょう)施行(702)に伴うものであることが確認された。また藤原宮の範囲が確定したことによって周辺古道との密接な関係が明らかになり、藤原京の範囲や条坊制地割が推定できるようになった。すなわち、藤原京は中ツ道を東京極(ひがしきょうごく)、下ツ道を西京極、山田道を南京極、横大路を北京極とする東西約2.1キロメートル、南北約3.1キロメートルの範囲を、朱雀(すざく)大路を中心に東・西各4坊、南北12条に区画されている。1坊は900尺(約265メートル)で、小路によって4坪に分けられている。坊を区画する道路幅は、側溝心心距離で朱雀大路が約25メートル、宮に面する六条大路が21メートル、二・四・八条大路が16メートル、三条大路が9メートルで、小路は7メートルとなっている。京内は、中央北寄りに16坊の地を占める藤原宮のほか、貴族の邸宅、庶民の家屋、大官大寺、本薬師寺、紀寺(きでら)などの諸寺院や東・西市が設けられ、京職(きょうしき)が京全体を管理していた。
藤原京の造営は、『日本書紀』持統(じとう)天皇5年(691)10月条の「使者を遣(つかわ)して新益京(しんやくのみやこ)を鎮め祭らしむ」とある記事によってそのころと考えられてきたが、近年、684年(天武天皇13)に造営が開始されたとする考えが有力となっている。前年に複都制の詔(みことのり)が出されて難波(なにわ)に都が置かれていることや、発掘で明らかにされた前期難波宮と藤原宮の構造の類似からみると、藤原京が前期難波京と密接な関係のもとに造営されたことが考えられる。藤原宮・京の中心部は国の史跡に指定されており、奈良文化財研究所(旧、奈良国立文化財研究所)によって発掘調査が継続され多くの成果をあげている。
[ 執筆者:中尾芳治 ] Yahoo!百科事典より
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Updated: 2010/7/10
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